閑話休題 ―びわ湖調査の思い出―


 「外国でのビックリ体験」のネタが切れたわけではないのだが、「自然像」という冊子が廃刊となり、原稿の催促もなくなると、さすがに筆が進まなくなるのは、まさに自然の理であろう。といって、このシリーズが2009年で途絶えてしまうのも悲しいものがある。

 思えば、びわ湖の研究に携わってすでに40年である。外国旅行などよりもはるかに多くの場数を踏んでいるびわ湖についての随想が少ないのも改めて意外であるとようやく気がついた。まもなくの現役引退を前に、いまさらながらびわ湖のことをもっと綴っておけばよかった、としみじみ思う。

 とか、いろいろ能書きをたれても、すぐには名文が浮かぶわけでもないので、今回はかなり以前(20年前)にどこかに書いた文章を再掲することで、2010年度自然像に無理やり仕立て上げることとした。実にイージーでケシカラぬ発想ではあるが、私の若い頃のびわ湖調査の一場面としてお読みいただければ幸いである。


湖流の観測法
 湖流や海流の研究があまり進展しない最大の原因は、水の流れを測ることが大変難しいからです。陸上で風を測るのに比べて、水の流れを測定することははるかに困難なのです。防水や腐食防止を施した測器の開発や製作には高度な技術を要し、それだけ測器は高価になり、また測器を長期間水中に設置するためにもさまざまな工夫が必要です。観測に船は不可欠ですが、いくら調査艇といえども、風波の高いときには作業をあきらめざるをえません。また、観測が漁業の妨げになってはなりません。

 水の流れを測るには大きく分けて二つの方法があります。ひとつは漂流物を追跡する方法で、もうひとつは「流速計」という器械を用いて、ある場所での流れの時間変化を測る方法です。少し前までは、湖のような比較的流れの遅い場合に使用できる良い流速計がなかったものですから、流れの観測は大部分が漂流物の追跡によっていました。たとえば、「漂流板」といって水中のプラスチック板と細いロープで連結された水面上の旗竿を船や陸上のトランシットで追跡したり、「漂流ビン」といって返信用の葉書を入れた小さなビンを多数びわ湖に流して、水泳場などでそれを拾った人が、拾った場所と時間を葉書に記入して投函するといった観測が行われました。最近では、電波発信ブイや飛行機、人工衛星などを利用した漂流ブイの追跡が試みられていますが、私たちはレーダーを利用した漂流ブイの追跡観測を考案し、もう十年以上もびわ湖で観測をおこなってきました。

レーダー観測
 私たちが使っているのは特殊なレーダーではなく、船舶の安全航行にごく普通に使用されているものです。私たちはこれを船ではなく、陸上や島に設置して、漂流ブイを追跡しようと考えました。測定の原理は、竹竿の先に反射板をとりつけたブイをいくつか湖に放流し、これらの動きをレーダー波の反射を利用して捉えようとするものです。レーダー受像機の管面にはブイの反射像が米粒のように映し出されますから、ブイの現在位置が手に取るようにわかります。そして時間が経つとブイの位置が変化するので、ブイの動き、すなわち水の動きが捉えられるというわけです。ただし、多数のブイを同時に観測する場合には、ブイ相互の区別がつきにくいので、ときどき調査艇によってブイを確認し、ブイの番号を無線でレーダー側に連絡することにしています。この観測の長所は、夜間や悪天候でも観測ができることと、追跡できる距離が光学的な方法よりもはるかに長いことです。

 ブイに取り付ける反射板の大きさや形については、反射能力や風の抵抗などの面からいろいろとテストをおこないました。たとえば、餅を焼く金アミを十文字に組み合わせてみたり、円筒形の反射板を作ったりもしました。最終的に穴あきアルミ板を正八面体に加工したものが反射能力も高く、風の抵抗も比較的少ないことがわかりました。ブイの水中部には、なるべく水の流れを受け止めることができるよう2m四方の防水布を用いました。世間では、大学というところは金持ちで、観測器材などは豊富に買えると思われているようですが、現実は全く逆なのです。したがって、少しでも経費を節約するために、ブイの作製には校内で伐った竹を利用し、反射板もすべて手づくりなのです。

多景島での環流観測
 びわ湖の環流のうち最も大きく、かつ安定して存在するのは、「第一環流」と呼ばれる反時計回りの環流で、びわ湖で一番幅の広いところで見られます。この環流をレーダーを利用して観測しようと思い立ったのは今から十年前のことでした。私たちは、この環流の観測基地として彦根の沖に浮かぶ「多景島」という島を選びました。この島は、かつては「竹島」だったそうですが、見る角度によってその姿がいろいろと変化するのでこの名前がつけられたと聞きました。彦根城からの眺めはまさに「軍艦島」です。島には見塔寺というお寺があり、島めぐりの観光船も出ています。私たちの観測でも、お寺の住職やお坊さんには大変お世話になりました。

 1981年の5月末に予備観測として多景島に上陸し、2泊3日の観測を試みました。参加者は学生6名と私の計7名でした。役割分担は、多景島でのレーダー観測部隊が4名、調査艇部隊が3名で、私は調査艇「湖精U」の操縦を担当しました。レーダー部隊は、観測器材の他に、島での泊り込み観測のためのテント、食糧、水などを持ち込みました。また、この島には電気がないので携帯用のガソリン発電機も欠かせませんでした。

 観測は、まず全員で島の頂上にレーダーの空中線を設置することから始まりました。島の頂上には、五箇条の御誓文が刻まれた塔が建っていますし、周りには木々が生い茂っていたので、これらがレーダー波の送信や受信の障害にならないように約7mの高さのタワーを組んで、その上にレーダーの空中線を載せることにしました。7人で力を合わせて何とかタワーを立て、そばに張ったテントの中にレーダー受像機を設置して観測準備が完了しました。この観測では、レーダーの電源として大きなバッテリーを使用しました。「さあ、レーダーを動かしてみよう」と、電源コードを接続した瞬間、バッテリーの端子に火花が飛び、その後いくら待ってもレーダーは作動しませんでした。「まずい!」と思ったのも後の祭りで、どうやら電源コードをバッテリーに接続するときに、うっかりしてショートさせてしまったようです。幸いにしてレーダー本体に損傷はなく、ヒューズが切れただけで済みました。が、こんな初歩的なミスは予想していなかったので予備のヒューズを用意していませんでした。結局、調査艇で彦根まで新しいヒューズを買いにいかなくてはならない羽目に陥りました。島から彦根港まではこの船で約20分かかります。観測初日からこんなことでは先が思いやられましたが、いまはそんなグチを言っている場合ではありません。

 船部隊の3人で彦根港まで行き、港の近くをさがしましたが、特殊なヒューズのためになかなか見つかりません。次に、タクシーに乗って彦根駅前のデパートに行きましたが、ここでも見つかりませんでした。なかばあきらめかけていたときに、駅近くの細い路地に古い電気屋さんを見つけました。あまり期待もせずに、店のおじいさんに事情を話したところ、店の奥の方にある引き出しの中から旧式の電子レンジに使っていたというよく似たヒューズをさがし出してくれました。この時には本当に肩から力が抜けていくのを感じました。おじいさんに何回もお礼を言って、再びタクシーに乗って港へもどりました。結局、2時間余りをヒューズさがしに費やしましたが、無事にレーダーは動き始めました。この時の教訓から、以後のレーダー観測には必ずヒューズの予備をもって行きましたが、皮肉なことにその後現在までにヒューズが切れたことは一度もありませんでした。

 レーダーが動きだしたので、船部隊は漂流ブイの放流のため島を出航しました。5本のブイを放流し、レーダー部隊から順調に追跡できているという旨の無線の報告を受け、「ああ、何とか観測が始まったなあ」と思ったときには、すでに夕日が沈みかけていました。再度、島に寄ってレーダー管面を確認し、来るべき徹夜観測の激励をして、私たち船部隊の3人は彦根港にもどり、宿屋に泊まりました。

ムカデの襲来
 翌朝、島に立ち寄ってみると、レーダー部隊の4人が疲れはててほとんど病人のような顔色をしているのに驚きました。彼らは、今までに何回も徹夜観測を経験してきたベテランです。一晩くらいの徹夜観測でこんなに疲れはてるには何かわけがあったのに違いありません。そのわけは、なんとムカデの襲来でした。聞けば、昨夜の7時頃まではきわめて順調に観測が進み、けっこう優雅に夕食も楽しんだのですが、8時の観測の時にテントに入って懐中電灯で照らしてみると、テントの中に今までに見たこともないほど大きなムカデが数匹侵入していて、あわてて追い払って何とか観測を行ったのですが、9時の観測の時にはその数は数十匹にも増え、その後夜がふけるにつれてその数も増えていったそうです。また、仮眠所としてお借りしたお寺の座敷の中にも所かまわずムカデが現れて、ふとんの下に隠れたり天井から落ちてきたりで、とても仮眠などできる状態ではなかった由。幸い、ムカデにさされた者はいませんでしたが、これほど多数のムカデの訪問を受けたのは彼らにとって初めての経験であったために、ついに一睡もできないまま、ムカデの恐怖におびえながら夜明けを迎えたのでした。朝になると、あれほど多く出現したムカデは嘘のように姿を消していました。感心したのは、こんな悪環境の中でも、観測が欠測もなく続けられていたことでした。さすがに百戦錬磨の地学の学生達でした。私たちが船で持ってきた食糧で彼らを慰労、鼓舞し、何とか2日目の観測が始まりました。

 漂流ブイは順調にレーダーで追跡できていたので、船部隊は水温の観測に出発しました。実は、びわ湖の環流は「地衡流」という流れに近い性質をもっているので、水温の分布を観測することによって流れの様子を把握することができるのです。今回は、水温観測から推定される環流と、実際にブイの動きから観測した環流の相互比較という目的もありました。また、この観測に先だって、購入したばかりの自記流向流速計という新兵器をびわ湖に設置してあったので、この記録も環流の実態解明に大きく役立つに違いありません。

 水温観測は予定の全測点で無事に終了し、島に寄って漂流ブイの様子を聞いてみると、やや波が高くなってきたのでブイがレーダーに映りにくくなってきたとのことでした。初めて多景島で行ったレーダー観測で、丸一日にわたって連続して漂流ブイの動きが捉えられたことはまずまずの成果であり、レーダー部隊の疲労も考えて、レーダー観測をその日の夕刻で打ち切ることにし、漂流ブイを回収ののち、その夜は船部隊も多景島に泊まることにしました。

 全員でにぎやかに夕食をとり、少し酒が入った頃になって、再びムカデの襲来に遭いました。私自身は岡山の田舎育ちで、子供の頃からムカデは見慣れていますので、別段恐くないと思っていたのですが、デカイやつが大群で押しかけてくるとさすがに気持ち悪く、お寺で寝るつもりでしたが、とうとう逃げだして、その夜は島の桟橋に係留した船の中で一夜を明かしてしましました。それでも、係留ロープを伝わってムカデが船に侵入して来ないかなどと気がかりで、あまり熟睡はできませんでした。 

七人の侍
 翌日は、先に設置してあった流速計を回収することになっていましたが、朝から南東の風が吹いていて、流速計設置点に到着してみると、波が高くてとても回収作業ができそうにありません。やむなく、回収は延期と決定し、多景島のレーダー撤去に向かいました。ところが、この辺りは年間を通して北西の風が多いことから、多景島の桟橋は島の南側につくられています。その桟橋は、しだいに強くなってきた南の風による高波に洗われていて、船を桟橋につけるのが大変難しい状態でした。とはいえ、このまま疲れきったレーダー部隊の4人を島に残して帰るわけにはいきません。桟橋では、すでに撤収した測器を船に積み込むべく4人が船の到着を待っています。しばらく島の沖合で船を漂流させて思案にくれていると、島からは「早く迎えにきて下さい」という悲壮な声が無線に入ってきます。

 しばらくためらった後、いま思いだしても身震いがするほど決死の覚悟で、高波の中を桟橋へと船を進めました。船の後ろから波を受けて進むと舵も思うように効きません。しかも、島で反射した波が三角波をつくり、船は木の葉のように揺れていました。少しでも針路を誤れば、大岩にぶつかることは必至です。なんとか桟橋に接舷できそうだと思った瞬間、大波を受けて船首が桟橋に激突しました。幸い大事には至らず、必死で船首ロープを桟橋の学生に渡し、無事に船を係留することができました。観測器材を船に積み込む間にも、船は大きく上下左右に揺れ動き、船が桟橋にぶつからないように力を振りしぼりました。器材の積み込みが終了し、全員が乗船するや否や、逃げるように桟橋を後にしました。島を離れてしばらくすると、奥歯が痛いのに気がつきました。まさに、無意識のうちに歯をくいしばっていたのでしょう。今までに私が経験した数多くの観測の中でも思い出の多い観測でした。そして、この時観測に参加した7名を「七人の侍」と称して、その晩はもちろんのこと、彼らが卒業したあとも酒を酌み交わしながらあのときの長かった3日間を語り合ったものでした。

ふたたび多景島へ
 この観測は、苦労や失敗も多くありましたが、これらが次からの観測の貴重な教訓となり、またこの時得られたデータからは、環流の発達過程について新しい発見がなされました。その後、3年にわたって多景島をレーダー基地とした環流の観測を行いました。1981年と82年の夏に行った観測では、ともに強風に遭遇し、放流した漂流ブイが追跡不可能となるばかりか、ついに発見できずに終わったこともありました。82年には観測途中で、一日中北西の強風が吹き荒れて、観測はおろか、船で島に渡ることさえできませんでした。島からは、「もう食糧がほとんどありません」、「なんとか船は出せないのか」という無線がひっきりなしに入ってきます。島めぐりの観光船も欠航するほどの平均20m/sの風では、わずか5トンの調査艇が出られるはずもありません。「風が落ちたらすぐに出航するから、それまで何とか頑張れ!」と激励することしかできない自分を、実にもどかしく感じたものでした。風は夜に入ってもいっこうに止む気配をみせず、私たち船部隊は島部隊の不自由な生活を気にかけながら早めの夕食をとり、風が止んだらすぐ船を出すので弁当を用意してくれるよう宿屋の主人にお願いしました。深夜になっても風の勢いは衰えず、やむを得ず床につきました。

 しばらく眠ったのでしょうか。急に辺りが静かになったのを感じ目を覚ましました。ついに風が止んだのです。時計を見ると午前3時半でした。みんなを起こし、いざ出航と用意をしていると、宿屋の人が私たちの朝食を用意して下さり、さらに人数分より多い弁当を手渡してくれました。こんな時間に起きてきて下さった宿の主人の好意に深く感謝し、まだ暗い彦根港から船を出しました。ようやく薄明るくなってきた多景島の桟橋には島部隊の学生達が全員で船を出迎え、船を桟橋に係留するとすぐに待ちに待った弁当を彼らに渡しました。桟橋に腰掛けてむさぼるように無言で箸を口へ運ぶ彼らの姿が頼もしく、またなぜか大変可愛くみえました。聞けば、昨夕は食糧不足を打開するために島で釣りをしたとのことで、にわかづくりの竿や釣り針で、しかも満足なエサもなかったにもかかわらず、名前もわからない魚が面白いように釣れ、醤油で煮て食べた由。神は存在するのかもしれません。これもまた思い出深い観測のひとつです。

 この調査では多数のブイを紛失しましたが、それでも、強風下における環流の動態や、「慣性振動」と呼ばれる周期約20時間の時計周りの流跡が捉えられました。そして、まさに三度目の正直だったのでしょうか、1983年の9月の観測では、静穏な天候に恵まれたこともあって、環流に乗って一周するブイの動きをついに捉えることに成功しました。この年の観測は何から何まで順調で、後になってこれほどの観測は二度とできないのではないかと思ったくらいです。これも、前年までの多くの失敗が役に立ったのでしょう。
(1991年ごろに書いた文章です。)

2011.6.15記(幻の自然像 Vol.50, 2010)


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