秋の終りを告げる冷たい北風が吹き始める頃になると、きまって武奈登山のことが懐かしく思い出される。かれこれ9年も昔のことだが、こうして幾度となく調査艇「清流」の窓からその雄姿を仰ぐにつけて、またしてもそこに何かしら運命的な繋りを感じるのである。やはりそれは私と”びわ湖”との出会いであったのだ。
私が理学部を選んだのは、受験時代どんなに頑張っても試験でロクな点しか取れなかった物理学に対する挑戦からであった。なかでも特にケシカラヌ原子物理学というものの正体をアバいてやるはずであった。事実、私は憧れの湯川秀樹の講義を幸運にも1年間だけ聴くことができた。
そんな私がなぜ”びわ湖”を研究の対象とするようになったかといえば、それは私の1,2回生時代、とりわけ「紛争」時代における私の学問に対する偏見的思考過程のコペルニクス的転回によるのである。これについてはいずれ異常心理学会?に発表する予定なのでここではあえて記さない。
「紛争」もなかった1回生の秋、退屈きわまる大学生活にヘキエキしていた私は、しだいに孤独を好むようになっていった。当時の私を振り返ると、あてもなく北山を歩き回っていたことや、鴨川の河原に寝そべって夕陽が山端に落ちてゆくのをボンヤリながめていたことなどがむしょうに懐かしく思い出される。それはまさに私の人生における"思秋期"であった。
12月になって間もない頃、同じ下宿の先輩から比良登山をすすめられた。同じ理学部の人で、私のよき相談相手でもあり、私に山歩きの手ほどきをしてくれたこの先輩には今でも感謝している。彼から地図を借りて、翌朝三条京阪発のバスに乗った。比良登山口から金糞峠までの道はかなり急であったが、酒はともかくまだニコチンに蝕まれていなかった当時の私は、6000ccを越す肺活量と、1500mを4分台で駈けぬける自慢の脚力とにものをいわせ、同じバスから降りた10人ばかりの登山者を後目に一気にかけ登った。
中峠でひと休みしているときに、この登山をこんなにまで思い出深いものにしてくれた出来事があった。それは、1人の女性との出会いであった。当時、女性との会話を最もニガテにしていたオクテの私の口から、ためらいながらも声が出、山頂まで同行することになったのも彼女の気さくな性格と、山のもつ特有のふんいきのためであったのであろう。前夜の小雨でぬかるんだクマザサの生茂った細い道を、先行する私の後から息をはずませて必死についてくる彼女に何とも言えない健気さを感じていた。私は確かに上気していたに違いない。とぎれがちの会話の中から、彼女が地元の人であること、私と同年で今は工場で働いていることを知った。道が一旦下りになり、それからかなり急な斜面を登ると武奈山頂であった。
山頂に立った時のあのふるえるような感動を私は今でも忘れることはできない。私の眼下に広がる"びわ湖"!! それまでびわ湖を見たことのなかった私にとって山とか島の名前などとにかくどうでもよかった。しかしそれは何という美しさであったろうか。私はしばらく呆然と立ちずさんでいた。
山頂から尾根伝いに少しばかり下った所で腰をおろして昼食をとった。彼女のびわ湖案内を耳にしながら食べた1本100円の巻寿司の何とウマかったことか。竹生島、伊吹山と彼女のあとから指さしていくうちに、その年の夏に友人と二人で残雪と濃霧の中を苦労して登頂した加賀の白山がいまは新雪に白く輝くのが遥かに遠望された。何とも言えないなつかしさがこみ上げてきた。
"びわ湖"につつまれて2時間余を彼女と過ごした。何を話したのかはもうすっかり忘れてしまったが、岡山弁の混じる怪しげな関西弁でかなり積極的に話しかけたことを覚えている。私の女性恐怖症はこの時癒えたのである。が、対女性の基本的なテクニックさえ持ち合わせていなかった私は彼女の名前すら聞き出せずに彼女と別れたのであった。鳴呼、何という後悔であろう! だが、私の心は晴々とし、体じゅうに勇気がみなぎるのを感じていた。私は登りと反対側の坊村のバス停まで当時愛唱していた「Heidenröslein」を声をはりあげて歌いながらかけ降りた。
その後私はなぜか一度も武奈に登っていない。
自然像 Vol. 18 (1978.3)
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