外国でのビックリ体験−その3−


◆モンゴル(1999年7月)
 「びわ科学懇談会」という集まりがある。主として滋賀県内の研究者、市民、学生の有志の集まりであるが、この会が主催する「モンゴル・エコツアー」というものに参加した。夏休み前の忙しい時期であったが、風の観測やTCT観測を早めに済まし、残りの授業は休講措置にして、あたふたと旅立った。いつもの海外旅行と違う点は、食糧、シュラフ、ロウソク、食器、懐中電灯、蚊取り線香などを用意したことで、まるで碇点観測を思わせる装備である。このツアーは先発、後発組に分かれ、私の参加した後発組は男3、女3というグループであったが、社長、県議、女医、学生など、それぞれに職業や立場の異なる人たちの集団で、人見知りを得意とする私にとっては不安も大きかったのであるが、結果的には、このメンバー構成が今回の旅を楽しく、思い出深いものにしてくれた。

 私たちは飛行機の都合で、まずソウルで一泊し、南大門市場やソウルタワーを見学したあとで、焼き肉とビールで前夜祭を行なった。翌日は早朝の飛行機で大草原のウランバートル空港に降り立った。ちょうどナーダム(最大のお祭り)最終日の人や馬の大群を車窓に見た驚きは、今でも脳裏によみがえる。ホテルで一泊し、なぜか日本料理やビールを堪能したあとで、満点の星を仰ぎ見ることができた。こんなに素晴らしい天の川を見るのは久しぶりである。とうに忘れかかっていた星の名前が、ふと口をつき、天文学を志した若き日を思い返したモンゴル初日の夜であった。

 翌日は、モンゴル航空の飛行機でウランバートルからムルンに向かったが、いざ搭乗した飛行機はサウナのように蒸し暑く、唯一のスチュワーデスが配ってくれるモンゴル語の新聞は、いたる席であわれウチワと化した。ムルンの空港で、先発隊と落ち合い、ここから湖畔のハトガルという村まではジープに分乗して約3時間の予定。大草原に刻まれた轍をたどって、ガタガタと揺れながらジープは進む。運転手は歌など口ずさみ、快調に進んでいたのであるが、突然車体に故障を発生し、大草原の真ん中で止まってしまった。さて、ここから車の大修理が始まる。驚いたことに、さして大きくもないジープの床下から、実にさまざまな部品や工具が現れ、他のジープの運転手も手伝って、確実に修理は進んでいるようであった。可憐な花をつけた背の低い草と馬糞しかない草原を歩き回ったり同行者と談笑しているうちに、2時間が過ぎていた。再出発してまもなく再び故障発生。他のジープに乗り換えてハトガルに着いたときにはすでに暗くなっていた。

 翌日からフブスグル湖というびわ湖の4倍もある湖で船上生活が始まった。「スフバータル」という船はけっこう大きな船で、持ってきたシュラフやロウソクなどを船室に並べて出航準備は整った。翌日から調査が始まったが、透明度を測ったところ25mという驚くべき値を示した。かつて訪れたバイカル湖でもそうであったように、世界にはまだまだ美しい湖が存在することを再確認した。調査は続けられたが、美しい湖水や大草原を眺めているうちに私の調査熱はすっかり冷めてしまった。こんな美しく大きな湖は多少の調査程度ではその正体を見せてくれるはずもなく、かえって船での調査自体が排気ガスやゴミを湖に撒き散らすことになるのではないか? そのうち「調査にかこつけて湖を汚すな。お前たちはとっとと帰れ!」という湖の龍神の声が聞こえるような気がした。そんな思いを込めて、生まれて初めて詠んだ歌が


 再びは訪(と)うことのなきフブスグル 永久(とわ)に湛えよこの清き水

である。「なかなかセンスがありますよ」と歌人斎藤すみ子氏のお褒めを頂いた。

 草原では馬に乗る機会があったものの、最初に乗った馬が全くの駄馬で、左に手綱をとれば右に歩き出し、手綱を絞れば一歩も動かず、ゆうゆうと草を食い始めた。高所恐怖症や腰痛もあって、その後の乗馬機会を棒に振ってしまった。あれ以来、競馬の騎手というのは、素晴らしいプロであるとの尊敬の念を抱くようになった。

 調査も無事に終わり、再びジープでムルンに帰り、最後の一日をウランバートルで過ごした。市内を一望できる丘に登ったときに、物売りが低い声でお経のようなものを唸っていた。同行した人から、これがモンゴル独特の歌唱法ホーミーだと教えられたが、私には単なるお経としか聞こえなかった。そのうち、この歌唱法は低音と高音を同時に発声しているのだと聞かされて、耳を澄ましたところ、お経のような低音と同時にかすかな高音のメロディーが聞こえてきた。しかも、高音は「北国の春」であった。このときほど驚愕したことは久しくない。旅も終わりに近づいた時に、ようやくホーミーの真髄を理解できたことは大きな収穫であった。さっそくカセットテープを買って帰ったが、やはり生の演奏に及ぶべくもなかった。


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◆カンボジア紀行(2000年1月)
 ひょんなことからカンボジアのトンレサップ湖調査に加わった。きっかけは、私のホームページに「世界の湖」という情報が載せてあるが、これを見た江川氏という人が私を世界の湖沼研究の専門家であると過大評価してくれたのである。それはともかく、その後の打合会などを経過して、年明け早々にバンコク経由でプノンペンに飛んだ。

 カンボジアを訪れるのはもちろん初めてである。この国はアンコール王朝に象徴されるように古い歴史を誇る仏教国であるが、最近ではロン・ノル政権、ポルポトによる大虐殺などを経過し、常に戦争下におかれてきた。最近になってシアヌークが復帰してようやく国情が安定してきたところである。日本の約半分の国土面積を有し、人口は約一千万人である。大虐殺や内戦により、若者の人口比率が著しく高く、ある意味で国中に若い気概がみなぎっている。人々は穏やかで、あの独特のスマイルは心が安らぐ思いがする。

 トンレサップ湖は雨期と乾期で面積が5倍ほど変化する不思議な湖である。湖の東端にあるトンレサップ川は乾期にはメコン川に注ぐが、雨期にはメコンからの逆流によって湖の水位は約8m上昇する。この時の最大面積は約一万km(びわ湖の約15倍)以上に達し、世界でも有数の大湖となる。ちなみにトンレとはGreatという意味である。

 プノンペンで一泊し、メコン川畔のレストランでは素朴な料理やアンコールとタイガーというビールを楽しんだ。翌日は高速船に乗ってトンレサップ川を上り、さらに湖上を走ってシムリアップという町に到着した。この高速船には多くの外国人観光客が乗り込み、船室はもとより屋根の上まで超満員であった。私も暗い船室を抜け出し、屋根の上であぐらをかいて約5時間の船旅を楽しんだ。おかげで、顔も手も真っ黒に日焼けしてしまった。

 シムリアップはアンコール遺跡にほど近い観光の町で、ホテルやレストラン、ディスコ、ナイトクラブなどが林立する。バイヨンというホテルに5泊したが、京大のアンコール調査団約10名が同宿していた。持ち込んだパックテストでホテルの水道水(地下水)を調査したところ、pHが4という低い値を示したのには驚かされた。なめてみると確かに酸っぱい。

 さて、翌日からトンレサップ湖の調査が始まった。シムリアップ川沿いにある船着き場で観光船をチャーターし、大湖へと繰り出した。湖水は有機物に富んだ特有の褐色を呈しているが、意外に澄んでいる。この湖の調査経験豊富な金沢大の塚脇氏によれば、こんなに澄み切った湖水を見るのは初めてであるという。約10ノットの船なので、それほど大きな範囲はカバーできないが、それでも約10カ所で水質や底質の調査を行った。乾期であるため、水深はどこでも約5mであった。それにしても実に雄大な湖である。1月であることを忘れさせるほどの強烈な日差しと入道雲。

 市場に行くと、ものすごい数の魚が並んでいて、種類も豊富である。同行した滋賀県漁連の箕田氏の目が輝く。これらの魚はすべてこの湖で獲れたのだという。単位面積あたりの漁獲量はこの湖が世界一であるとガイドブックには書いてあった。カンボジアの人々にとって魚は貴重な蛋白源であり、まさに「命の湖」なのである。湖底堆積物を採取すると、イシガイやシジミが面白いように獲れる。また、湖や川にはびわ湖の"エリ"にそっくりな仕掛けが見られた。

 湖の調査を終えて、アンコールワットやアンコールトムなどを巡った。詳細は改めて記すことにするが、アンコールワットの塔に登るための急傾斜の階段では足がすくんで泣きそうであった。(さらに続く)  (2000.1.31記)


「自然像」 Vol.39 (1999)



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