外国でのビックリ体験−その6−


はじめての外国体験
 今でこそ、いろいろな外国体験を持つが、私がはじめて海外に出向いたのは1984年である。すでに齢35を数えていた。この年は、滋賀大に赴任して7年目にあたり、10ヶ月間の内地研究員として、月曜日以外は大学には出勤せず、比叡山を越えて京大まで車で通う毎日であった。博士課程を中退していたので、学位を取るためには論文を書かねばならず、難解な数学や計算機プログラムと格闘していた。

 そんな最中に、南京との学術交流が発端となって、“中国に行ってみないか?”という話が持ち上がった。いうまでもなく、二つ返事でこの話に飛びつき、いろいろとやっかいな事務手続もあったが、大阪伊丹空港から上海に向けて飛び立った。

 上空から見た中国は、確かに広大であるが、子どもの頃に見慣れた田舎の風景のように映る。降り立った上海空港は改装中ということもあり、粗末なコンクリート壁が続く殺風景な空間であった。入国手続きや荷物検査を終えて出口に向かうと、そこには南京地理研究所のスタッフの笑顔が待っていた。

 初めての海外体験であったこの旅には、いろいろ思い出が多い。中国南東部の江蘇省のシンボルでもある太湖は琵琶湖の4倍の面積を誇るが、水深は2mほどしかない。ある日、遊覧船で太湖を巡った。湖水は一面泥色を呈し、琵琶湖の澄んだ水とは好対照である。湖の真ん中あたりで停船した時に、まだ若かったせいもあって、湖に飛び込んだ。確かに少し潜ると足には湖底が伝わってくる。さて、その後が大変であった。船にあがると目がチクチクと痛み、鏡を見ると真っ赤に充血している。あとでわかったことであるが、太湖の濁り(懸濁物)は非常に細かな泥で、これが目に入って、急性の結膜炎を起こしたのである。

 太湖には何隻もの帆掛け船が航行し、近づいてみると、それは何日も漁をしながら家族が寝泊まりする住居なのであった。太湖に沈む夕陽に、櫓をこぐ船のシルエットが映えて、何とも言えない異国情緒を感じていた。ただ、夕陽を眺めた岬の名前が亀頭渚であったのには、さすがに苦笑した。

 蘇州、無錫の名所を巡り、列車で南京に入った。軟座車という一等車両は乗り心地もよく、テーブル付きの座席にゆったりとくつろぎながら、お茶のサービスを楽しんだ。食堂車も連結されていて、優雅な夕食も、と言いたいところであるが、この旅を通じて残念だったのは、冷たいビールにほとんどありつけなかったことである。たとえば、食堂車でビールを注文すると、すでにテーブルに置いてある生ぬるいビールの栓を抜いてくれる。西日にさらされているので、温度は優に30℃を超えている。あまりの情けなさに、帰国してからは、「中国はどうだった」と聞く友人に、きまって「中国のビールは30度もあったぞ」と言うことにした。「ほおう。ずいぶんと強いビールなんや」とアルコール度と勘違いするのを楽しみにしたものである。

 南京では、これからの研究交流や、太湖と琵琶湖の比較などについて、真面目に議論をした。大きな争点は、やはり研究費のことであった。南京飯店というホテルのお世話になったが、ここでもぬるいビールしか出てこないので、氷を注文することを思いついた。当然のことながら、中国語は話せないので、ひたすら筆談である。はじめは相手も怪訝な顔をしていたが、「氷」、「氷塊」、「氷石」などを経て「氷片」という単語にたどり着いたとき見事に功を奏し、ビールのロックを楽しむことができた。そのうち「氷片(ピンクワ)」という怪しげな発音をマスターしたので、もう怖いものなしである。10年余り後に中国を再訪したときにも、この手を使おうと思っていたら、大抵の所でビールは冷蔵庫から出てきた。

 さて、南京での会議を終え、長江(揚子江)を船で上り武漢に向かった。まる二日の長旅である。長江はさすがに大河で、川幅も広く、大型船や数珠繋ぎの船団が往来する。水は赤茶色に濁り、これまたわが国の清流とは対照的である。かつて日本にやってきた中国人が瀬戸内海を見て言ったそうである。「日本にも結構大きな河がありますね」と。
 乗船したのはちょうど中秋(秋分の日)で、土産にもらった月餅(ゲッペイ)をほおばりながら、のんびりと船旅を楽しんだ。付き添ってくれた楊さんの得意な「皇帝(エンペラー)」というトランプにも明け暮れた。

 武漢では水生生物研究所を訪問し、長江にしか棲息しない淡水イルカを見せてもらった。つい先日、このイルカの死亡記事を見つけて、時間の流れを感じた。さらに旅は続き、夜行列車で北京に向かった。定員4名の個室(コンパートメント)で、これまた快適な寝台列車の旅で、翌早朝に北京駅に降り立った。

 北京大学や中国科学院などを訪問し、例の「万里の長城」に登ったが、急勾配の坂道では足が滑って危うく大けがをするところであった。ここには二度と行かないつもりである。当時は外国人専用の紙幣(兌換券)があって、しかも一元は100円以上の値打ちがあった。旅も終わりに近づいて、お土産買いに奔走した。奥村さんからは「商売でもするんか」と冷やかされるほど小物を買い込んだが、いま思うともっと高価な飾り物でも買っておけばよかったと悔やまれる。
 
 その後、中国には二、三度出かけたが、やはり初めての外国紀行であった1984年の印象が最も強く脳裏に残る。(さらに續く)  2003.2.3記

(自然像 Vol.42, 2002)




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