さすらいのギャンブラー(?)  Wandering Gambler 1
その2に続く
私は,「さすらいのギャンブラー」という言葉の響きが好きである。(かなり前にこんなタイトルの漫画があった。作者は,たしか園山しゅんじ氏)。あえて英訳すれば,wandering gamblerだろうか?

 「人生はギャンブルなり」とまでは思わないが,道を選択するときに,その時点で自分がもっている幾つかの価値判断や哲学の中から,最終的に一つの道を選択するのは,まさに「賭ける」という言葉がふさわしい。と,いうようなことはどうでもいいのかもしれない。ギャンブルは所詮ギャンブルなのだ。

 
競馬について Horse Race

 競馬歴は結構長い。はじめて競馬場に行ったのは,1969年の春の天皇賞であった。天皇誕生日の4月29日,淀の京都競馬場には多くのバクチ打ち(ほとんどがジャンパーと帽子で身を固めたオッサン達で競馬ファンなどという優雅な気配は感じられなかった)が集まっていた。◎はタケシバオー,○はアサカオーであった。馬券は一枚200円で,当時200円もあれば結構優雅な夕食が食べられた。バス代が20円,銭湯が28円の時代であった。馬券には,このほかに特券と呼ばれる一枚1000円の券があったが,庶民にはとうてい買えるものではなかった。そのうち500円券が発売されたが,それはしばらく後のことである。

 当時は馬券の自動発売機などはなく,窓口で「2−8を1枚」と大声で言わねばならず,後ろに並んでいる人に丸聞こえであった。逆に,前の客が「2−6」とかいうのを聞くと,こちらの推理に動揺が生じて,ついつい「2−6」も押さえてみたりすることもあったが,大抵はあっさり外れた。ちなみに,馬券は単勝・複勝・枠連の3種類のみであり,「2−8を1枚」というのは枠連の200円券1枚を意味する。当時の馬券は分厚いボール紙(馬糞紙とも呼ばれた)で,今から思うと実に汚い印刷であった。しかしながら,小さな穴だらけの場外馬券や,発券機から無機的に出てくる最近の馬券に比べれば,窓口のおばちゃんから手渡された馬糞紙馬券は,たった1枚でも十分な重みと温かさがあった。

 さて,仲間が2点の馬券を買ってくれたが,結果は1着◎タケシバオー,2着○アサカオーという銀行レースで,1枚は的中したものの払い戻しは160円であった。つまり,400円の投資で320円が返ってきて,結局は損したことになり,ビギナーズラックも「うれしさ半分」であった。

 その後,春の天皇賞では2強対決といわれたレースが何度かあったものの,メジロマックィーンとトウカイテイオーの対決でさえ,銀行レースではなかった(2着は私の好きなカミノクレッセであった)。1998年もメジロブライトが勝ち,1番人気のシルクジャスティスは4着に敗れた。

 懐かしい馬やレースは数しれないが,1971年の皐月賞・NHK杯・ダービーを連覇したサラ系ヒカルイマイは特に思い出深い。3コーナー,4コーナーと最後尾にいて,直線一気に他馬をごぼう抜きする爽快感は忘れられない。そのほかには,重賞にはあまり縁がなかったものの,エリモカップという馬も好きであった。寒風の吹きすさぶ中で震えながら観戦した新馬戦を快勝したこの馬に一目惚れし(ただし,牡馬であった),その後の出走レースには必ずこの馬の馬券を買った。皐月賞が8着(ブービー人気),菊花賞は5着であったが,その後5歳になって幾つかのレースで連対し,その夜には仲間と寿司屋で乾杯することができた。

 思い出深いレースも数多くあるが,まだ無名であった頃のライスシャワー(ダービー2着)やヤマニンゼファー(安田記念1着)などを的中したのは我ながら胸のすく思いであった。1992年の安田記念でのヤマニンゼファー+カミノクレッセの馬連は16万円の収入となったが,みんなで焼き肉を食って二次会に行ったら約半分は消えてしまった。なお,この馬連は8-18であったが,レースの開催日が八十八夜の頃であったので,「8 18や!」という語呂合わせも思い出深い。

 ニューヨークで同時多発テロがあった2001年の有馬記念でのマンハッタンカフェ=アメリカンボスの連対は有名であるが,3着のトゥザビクトリーも的中させ,ワイド馬券をすべてゲットした。テロ攻撃に対して,アメリカは「勝利に向かって報復攻撃中」という意味に解した3着馬であった。翌2002年の有馬記念で2着に逃げ粘ったタップダンスシチーの的中は,大阪スポーツ(ダイスポ)紙の「ミラクル連対」という記事のおかげである。タップダンスはその後急速な成長を遂げるが,この年の有馬記念ではブービー人気で,結構な配当をもたらしてくれた。

 競馬場から足が遠のいた頃に,電話投票システムを知り即加入。その後のモデムによるパソコン通信(PAT)を経て今はWEB上で馬券が買えるようになった。CATVのグリーンチャンネルも導入したので,まさに快適な競馬環境が出現した。競馬場やWINSで長蛇の列に並ばなくて済むことが何よりである。ただし,馬券を握りしめて観戦できないのが残念であるので,たまには競馬場の柵越えに,生のひづめの音や馬の荒息を聞き,はずれ馬券を空高く放り投げてみたい。ただし,ゴール前での新聞や馬券の放り投げは,武豊のマーベラスサンデー事件以来,禁止されてしまった。昔は競馬場と言えば新聞,馬券,吸い殻,ゴミの散乱する世界でも最も汚い場所の一つであったが,最近はかなりマシになってきたようである。

競走馬の写真を撮り始めました。まったくの素人ですが、よろしければご覧ください。
「競走馬の撮影について」へのリンク


















ラスベガスにて Las Vegas

 有名な博打都市で,いつでも多くの日本人がたむろしている。日本語ではカジノというが,英語ではカシーノと「シ」にアクセントがあって濁らない。ギャンブルを開放したネバダ州には,ラスベガスに限らず至る所に賭博場がある。たとえば,高原の美しい湖であるタホ湖畔では,ネバダ州のホテルに泊まれば賭博OKだが,すぐ隣のカリフォルニア州では御法度である。

 一昔前のラスベガスのスロットマシーンは,5セントや25セントの現金コインを入れてスタートレバーを引くスタイルのものが多くあった。1ドルや5ドルのマシーンもあり,これは専用のコイン(tokenと呼ぶ)を使う。1ドルのコインはずっしりと重く,当たった時には,受け皿にガンガンという音を立ててコインが落ちてくるので,相当な迫力があった。今は,マシンに紙幣を挿入し,ベット数を選択後にスターボタンを押すだけで,あとはすべてコンピュータによる数字管理である。当たるときは結構儲かるが,時間に任せて続けると必ず損をする。台を変わるタイミングが重要である。ただし,日本のパチンコ屋と違うのは,大当たり(Jackpot)があることで,たとえば3枚コイン投入で「Bonus」などの絵柄がそろったときには,ざっと1億円が転がり込んでくる。

 ルーレットもおもしろい。赤か黒,奇数か偶数,前半か後半などの丁半で賭けるのもいいが,特定の数字に賭けたり,隣り合う4数字に賭けてみたりするのも楽しい。私は,それまでの出目から5,14,35という数字にかけ続け,36倍の払い戻しを何回ももらった。テーブルの横に今までの出目が表示されるので,それぞれに推理しながら賭けるのが醍醐味である。同じような数字が続けて出たり,繰り返すことも多い。まあ,自分の好きな数字に賭けてみるのが負けても納得いく遊び方であろう。アメリカ式(ヨーロッパ式)のルーレットには0のほかに00がある。もちろん,この2つの数字にも賭けることができるし,0や00を的中すると,まわりからGood Jobと言う声が飛ぶ。

 私の一番好きなゲームはBJ,つまりブラックジャックである。ディーラーは,かわいい「おねーちゃん」であるが,血も涙もない。客は5人までで,席に着いたときに専用のチップに交換してもらう。ルールは簡単で,カードの合計が21に近い方が勝ちであり,21を越えると「バースト」いわゆる「ドボン」で,無条件に負けである。ルールは簡単であるが,とにかくディーラに勝てばいいので,合計が13でも,ディーラーが「ドボン」なら勝ちである。ディーラーはカードの合計が16以下なら必ず次のカードを引き,17以上は引けない,という規則を利用するのである。

 私は,ルールは知っていたので,初めて参加したときには,「ヒット(もう一枚)」とか「ステイ(もういらない)」とか声を出してプレーした。そのうち,ディーラーから,「声を出すな」と言われ,ヒットはテーブルを指で叩くか手招き,ステイ(スタンド)は手の甲をディーラーに向かって振る(あっちへ行け!みたいに),という仕草でゲームが進行することを教えてもらった。

 勝負は,トントンであった。隣の席のアメリカ人と「グレイト」とか「オウ,マイ」などと声を掛け合って楽しく遊ぶこができた。知らなかったルールは,ディーラーの表向きのカードがAの時に「保険(インシュランス)」を掛けるかどうか,自分の2枚のカードの合計が11や10のときに,チップを倍額し「ダブル」を宣言したり,あるいは手札2枚が同じ数字のときに別々に(スプリット)して2回の勝負ができることなどである。ただし,ダブルのときにはあと1枚しか引けない。詳細はこちらを参考

 バニーガールがドリンクの注文にきてくれるので,「ビア,プリーズ」などと言っておけば,5分後にはビールを届けてくれる。チップは,1ドル札でもゲーム用のチップでもかまわないが,「Thanks」だけは忘れないようにしたい









続きがあります

©2017 SEndo Kouta

ホームペイジへ